2007年05月20日(日) 21:41
名古屋の 街の西のはずれ に、
文明(鉄道)開花 の波が押し寄せてきた様子は、前回までの記事で。
○ 海と海を結んで、ガタゴトゴットン
○ (補)海と海を結んで、ガタゴトゴットン
○ 「東海道」 と 「東海道線」 のチグハグ
○ 続 ・ 「東海道」 と 「東海道線」 のチグハグ
9● 〜1898年(明治31年)11月18日
2つの「名古屋〜大阪」開業
さて、以前の記事中でリンクした
○ 鉄道博物館 収蔵資料紹介 にも記されているように
当初の 「東京〜京都間幹線鉄道のルート候補」 であった中山道ルートだが、
・・・・・・
・・・・・・結局、この地でその路線が開業し始めるのは、
東海道全線開通(明治22年)に遅れること11年、
明治33年の 「名古屋〜多治見」 である。
10● 〜1900年(明治33年)7月25日
ようやく「名古屋〜多治見」
ここで面白いのは、そのルートが本来の「 中山道 」ではなく、
名古屋の街を囲い込む形 で、
大きく南に迂回して名古屋駅に接続している事だ。
当時は、東の街はずれ
それも、金山(現在の)〜名古屋間は、
当初より二線(東海道、中央)が並んで敷設されている。
・・・・・・
・・・・・・なるほど!、開業時の駅は、千種駅、勝川駅、高蔵寺駅、多治見駅で、
この中で 名古屋市内の駅は千種駅のみ なのである。
※ ちなみに、現在中央本線:名古屋市内の駅は、大曽根駅、千種駅、鶴舞駅、金山駅である。
* 大曽根駅は明治44年 「フムフム、なるほどね」
* 鶴舞駅は昭和12年 「あぁ、戦前かぁ」
* 金山駅は昭和37年(東海道本線は平成元年) 「ありゃ、つい最近なのね」 の開業。
鶴舞の歩道橋から見る中央本線、上は名古屋高速
先に示した中山道ルート:中央本線(中央西線)が直に岐阜に接続せず、
この地方の中心都市たる名古屋を経由することの必然は、時の流れから理解できる。
- ただ前日記したように、私はダーウィン進化論的思考をしてしまうので(笑)
- この中央本線(中央西線)が、「 中山道 」そのままに、直に岐阜に接続していたならば、
- 当然、この地方の様相も全く異なっていたはずである、もちろん。
中央本線 × 新堀川
その後、中央本線(中央西線)は、
「名古屋〜多治見」の2年後に現在の中津川まで延伸している。
11● 〜1902年(明治35年)12月21日
中山道ルートへ
現在、千種〜大曽根間の殆どは掘割式
同上、戦後の工事のようだ
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
ところで、そのルートが名古屋経由であるにしろ、
名古屋の街の北側を走らずに、わざわざ街の南側に回り込むことの意味は・・・
●名古屋駅に 関西への進路方向(北向き)で接続 する必要、
●街の西端の名古屋駅の東方、広小路の延長線上に
新駅(千種駅)を設置すること(つまり、挟み込みね)による 街の活性化期待、
●街の北側(=名古屋城の北側)の 地盤の問題、
等が考えられるのだが、果して如何だろうか。
文明(鉄道)開花 の波が押し寄せてきた様子は、前回までの記事で。
○ 海と海を結んで、ガタゴトゴットン
○ (補)海と海を結んで、ガタゴトゴットン
○ 「東海道」 と 「東海道線」 のチグハグ
○ 続 ・ 「東海道」 と 「東海道線」 のチグハグ
9● 〜1898年(明治31年)11月18日
2つの「名古屋〜大阪」開業
さて、以前の記事中でリンクした
○ 鉄道博物館 収蔵資料紹介 にも記されているように
当初の 「東京〜京都間幹線鉄道のルート候補」 であった中山道ルートだが、
・・・・・・
・・・・・・結局、この地でその路線が開業し始めるのは、
東海道全線開通(明治22年)に遅れること11年、
明治33年の 「名古屋〜多治見」 である。
10● 〜1900年(明治33年)7月25日
ようやく「名古屋〜多治見」
ここで面白いのは、そのルートが本来の「 中山道 」ではなく、
名古屋の街を囲い込む形 で、
大きく南に迂回して名古屋駅に接続している事だ。
当時は、東の街はずれ
それも、金山(現在の)〜名古屋間は、
当初より二線(東海道、中央)が並んで敷設されている。
・・・・・・
・・・・・・なるほど!、開業時の駅は、千種駅、勝川駅、高蔵寺駅、多治見駅で、
この中で 名古屋市内の駅は千種駅のみ なのである。
※ ちなみに、現在中央本線:名古屋市内の駅は、大曽根駅、千種駅、鶴舞駅、金山駅である。
* 大曽根駅は明治44年 「フムフム、なるほどね」
* 鶴舞駅は昭和12年 「あぁ、戦前かぁ」
* 金山駅は昭和37年(東海道本線は平成元年) 「ありゃ、つい最近なのね」 の開業。
鶴舞の歩道橋から見る中央本線、上は名古屋高速
先に示した中山道ルート:中央本線(中央西線)が直に岐阜に接続せず、
この地方の中心都市たる名古屋を経由することの必然は、時の流れから理解できる。
- ただ前日記したように、私はダーウィン進化論的思考をしてしまうので(笑)
- この中央本線(中央西線)が、「 中山道 」そのままに、直に岐阜に接続していたならば、
- 当然、この地方の様相も全く異なっていたはずである、もちろん。
中央本線 × 新堀川
その後、中央本線(中央西線)は、
「名古屋〜多治見」の2年後に現在の中津川まで延伸している。
11● 〜1902年(明治35年)12月21日
中山道ルートへ
現在、千種〜大曽根間の殆どは掘割式
同上、戦後の工事のようだ
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
ところで、そのルートが名古屋経由であるにしろ、
名古屋の街の北側を走らずに、わざわざ街の南側に回り込むことの意味は・・・
●名古屋駅に 関西への進路方向(北向き)で接続 する必要、
●街の西端の名古屋駅の東方、広小路の延長線上に
新駅(千種駅)を設置すること(つまり、挟み込みね)による 街の活性化期待、
●街の北側(=名古屋城の北側)の 地盤の問題、
等が考えられるのだが、果して如何だろうか。
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